あなたのMY REBORN 元日本代表、監督、2人の出会いがくれたサッカー人生の転機

各界のプロフェッショナルに、MY REBORN(人生のターニングポイント)を伺うこの企画。第3回にご登場いただくのは、「黄金のレフティ」「左足の貴公子」の異名を取る元プロサッカー選手、岩本輝雄さん。べガルタ仙台時代に放った、40mという驚異的な距離のフリーキックは今もサッカーファンの記憶に深く刻まれています。日本代表にも選ばれ、22歳のときにはチーム攻撃の要である10番を背負いました。「サッカーは人生の一部」と言う岩本さんには、どのような転機があったのでしょうか。

あなたのMY REBORN 元日本代表、監督、2人の出会いがくれたサッカー人生の転機

――今までの人生で、転機はどんな形で訪れましたか?

転機はいつも人によってもたらされました。
今、すぐ思いつくのは2人です。1人は、高校でプレーしていた僕を見出して、ベルマーレ(当時はフジタ工業)へつないでくれた三村格一さん。三村さんは元サッカー選手で、メルボルン五輪の代表選手にもなった方です。2人目は、ベガルタ仙台の監督、清水秀彦さん。

三村さんは強豪でもない高校でプレーしていた僕を見て、高校3年の数か月間ずっと注目してくれていたそうです。僕自身は全然気が付かなかったんですが 。プレーヤーとしては神奈川国体に出て注目......されていましたが、全国大会にも出てなかったし無名でしたよ。だけど見出してくれて、それでフジタ工業を紹介してくれたんです。
本当は、大学でサッカーをやることが決まっていたんです。でもうちは母子家庭だったんで、大学行くよりプロになってお金もらったほうがいいと思って、1991年にフジタ工業に入ったんです。ちなみに三村さんに見いだされた選手はたくさんいるんですよ。奥寺康彦さんや、遠藤雅大さんもそうです。そこからプロ人生が始まるんです。三村さんには感謝しています。

――1年経ってフジタに入ったとき、迷いはなかった?

じつは、プロ入りを決めた、もう1つの理由はカズさん(三浦知良)です。ちょうどブラジルからカズさんが帰ってきた頃で、読売クラブで24番をつけてプレーする姿がカッコよくてカッコよくて。国立競技場に通っていつも見ていました。本当に憧れの選手でしたね。
まさか、3年後に日本代表でカズさんと一緒にプレーすることになるなんてね。思いもしなかった。

――フジタ工業はやがてベルマーレ平塚となって、岩本さんは名良橋晃さん達とともに「ベルマーレ旋風」を巻き起こし、チームをJ2からJ1へ引き上げましたね。

最初は試合に出られなかったんです。でも、ちょうどジーコがいた鹿島アントラーズと第5節に試合していた時、「負けてるから出ろ」っていわれ、ファーストタッチでゴールを決めることができた。そこからレギュラー入りしたんです。
その後フジタ工業はJFLで優勝し、チームはJリーグに昇格しベルマーレ平塚と名前を変えました。のちにJ1に昇格。そしてここでも大切な人との出会いがあったんです。ブラジルから来たコーチのニカノール(デ・カルバーリョ)です。僕はミッドフィーダー(MF)だったんですけど、ニカノールは僕をサイドバック(DF)にコンバートした。ぼくが左サイドバック、名良橋さんが右サイドバック。そこからググーっと伸びましたね。優勝決定戦でハットトリックしたりと活躍できました。今までと違う世界が見える気がしました。これでますますサッカーがおもしろくなったんです。
当時、チームにブラジル代表で10番を背負ったピッタがいて、フリーキックは彼から教えてもらいました。周囲には名良橋さんはじめ、野口さん、名塚さん、上田(栄治)さんがいて 。オリンピック......や高校サッカーで有名だった人ばかりなので、刺激だらけの最高の環境でしたよ。そして毎日トレーニングまたトレーニング。充実してました。19歳の頃、一番サッカーがおもしろかったかも。

――1994年には、サッカー選手なら誰もが見る日本代表に選出されました。

じつはその前年、例の「ドーハの悲劇」の最終戦でもオフト監督から声がかかっていました。でもその時21歳で、カズさん(三浦知良)、ラモス瑠偉さんはじめ、いつもテレビで見ている人たちとプレーするなんて! とビビって(笑)断ったんです。
半年後、オフト監督の次のファルカン監督に呼ばれ、代表になりました。5月に呼ばれ、オーストラリア戦やフランス戦、ガーナ戦など、先発出場させてもらいました。
当初は6番を付けていたんですが、10月のアジアカップでは思いもかけなかった10番をもらって、「マジか!」って感じでした。部屋に入ったら10番のユニフォームがおいてあって。てっきりノボリさん(澤登正朗)がつけると思っていたから、部屋を間違えたと思ったぐらい。
これはうれしいよりもプレッシャーが大きかったですね。まだ22歳で経験も浅かったし、僕の前に10番だったのはあのラモスさんですから!アジアカップでは調子が上がらなくて、その後、ファルカン監督も解任、僕も代表を離れました。6番のままだったら、もう少し長くできたかなぁ。(笑)

その後はケガの連鎖が始まって 。当時は今の......Jリーグより試合数が多い上に、代表戦が合間に入ってきて、心も体もついていけない状態が続いていたし、焦りがあったんでしょうね。1週間しか休まずに行ったブラジルでの短期留学で、右足首を痛めてしまいました。帰国後は左足の靭帯を損傷してしまいました。

――その後、京都パープルサンガ、川崎フロンターレ、ヴェルディ川崎へ移籍 。5つ目がベガルタ仙台ですね。

そう。ここで2つ目の転機となる清水秀彦監督との出会いがありました。ある意味、清水監督に拾ってもらったようなものです。ヴェルディは自主的に退団したので、半年無職で、その間にベガルタの練習に参加させてもらい、声をかけてもらったんです。
清水監督の指導の仕方と僕のスタイルがすごく合って、のびのび活躍できましたね。僕は締め付けられるのが苦手なんです。ちなみに、洋服も締め付けられるのが嫌いですから、引退してからは足首を冷やすことに気を使わないでいいから靴下も履かないし、パンツも履いてないです。普段、ノーパンですよ。テレビに出ているときも(笑)。
引退してからいろんなチームの試合を見ていますが、伸びるチームはやっぱり監督がうまい。選手の力を100%から120%まで引き出す。選手それぞれのいいところを見出し、チーム全体の中で整理していく。それぞれの役割をしっかり整理し「お前はこの部分をやれ」と指示することで個人プレーじゃなくチーム全体が強くなるんです。今の横浜FCがいい例だと思いますよ。下平隆弘監督になってからの強さはそれですよ。

――清水監督は、そういう監督だったんですね。

そう。僕はシュートもアシストもしたい。でも、プロとして両方はいらないんです。チームにマルコスという2m近い大男がいて、僕と相性が良かったんですよ。僕はサイドから徹底的にクロスを上げることに徹して、彼は1年目に38点ぐらいあげたんじゃなかったかな? 僕は僕で、そのシーズンはだいたい20ぐらいアシストできたから、彼のおかげ、清水監督の指示のおかげ。
やっぱりみんな「自分が自分が」って前に出ようとしてしまう。だけど、チーム全体の1つの駒として役割を果たすことが大切で、そうすれば自分の評価も上がっていくんです。

――ベガルタ仙台時代の40mフリーキックは、今もクラブの伝説ですね。岩本さんも「左足の貴公子」「黄金のレフティ」などと呼ばれて。

クラブの伝説? Jリーグの、じゃない(笑)? キャッチフレーズも、それは間違いないですよ。そこは自信あります。僕の武器ですね。コンディションが良ければ誰にも負けません。その武器があるから10年以上やっていけたんです。

 

――なるほど。失礼しました。そして、岩本さんはべガルタ仙台のあと、名古屋グランパスエイト、そしてオークランド・シティFCへ。

本当はね、べガルタをやめたあと、引退したかったんです。
5月のナビスコカップで、すぐ大ケガしてしまって。左足の靭帯断裂です。手術を4回繰り返し、治るまで1年8か月かかった。このときはさすがに焦りましたね。33〜34歳ぐらいでしたから。でもここでやめるより、きっちり直してもう1回プレーしてから引退しようと決めて、猛烈にリハビリしました。そして2006年、2年のブランクを経てニュージーランドのオークランド・シティFCに加入して、FIFAクラブワールドカップに出場して引退したんです。
(後編へ続く)

writing by Mikiko Arikawa

プロフィール

 

岩本輝雄(いわもと・てるお)
1972年神奈川県生まれ。Jリーガーとして、ベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)、京都パープルサンガ(現京都サンガ)、川崎フロンターレ、ヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)、ベガルタ仙台、名古屋グランパスエイトでプレーする。2006年オークランド・シティFCでFIFAクラブ・ワールドカップに出場後引退。サッカー解説はじめ、TVバラエティなどでも活躍中。財団法人日本サッカー協会JFAアンバサダー、ベガルタ仙台アンバサダー。J1通算191試合出場32得点。